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リスキー・ラズアルディ 「中心なき周縁 インドネシア現代の映像におけるアニメーション実践」(2016年5月6日)

リスキー・ラズアルディ 「中心なき周縁 インドネシア現代の映像におけるアニメーション実践」

2016年5月6日@シアター・イメージフォーラム「寺山修司」

本稿は201656日、イメージフォーラム・フェスティバル2016(会場:シアター・イメージフォーラム 寺山修司)内で行われた講演の採録に基づいています。

1975‐1982年 ゴトットと周縁映画

今日は来ていただいてありがとうございます。こんなに多くの方にいらしていただけるとは思ってもいませんでした。今日の講演では、特定の作家のスタイルであるとか、現代インドネシア・アニメーションの話法に関することというより、インドネシアにおけるアニメーション全般のお話をしたいと思っています。

それでは始めます。私は今日の講演に「中心なき周縁」という題名を付けました。これは、インドネシアにおけるアニメーション映画の位置を示すものです。最初に、1975年から1982年までの時期を見てみることにしましょう。「周縁映画」と呼ばれる運動のあった時代です。この運動を率いた中心人物は、ゴトット・プラコサGotot Prakosa、サルダノ・クスマSardano Kusuma、マルセリ・スマルノMarselli Sumarno3人です。

いま「周縁映画」というふうに「周縁marginalised」という言葉を使いましたが、これは正確な表現ではありません。私は、英語で対応する言葉を見つけれず、やむなくこの単語を用いました。正しくは、インドネシア語で「ピンギランPinggiran」といい、中心からはずれた場所を意味します。郊外であったり、スラム街であったり、浮浪者であったりを指す言葉ですが、軽蔑的な意味合いがそこには込められています。いい意味では使われません。しかし、アニメーションが当時置かれていたのは、こういう蔑称としての周縁にふさわしい位置でした。英語で「マージナライズド」というと、位置関係を相対的に示すのみで、否定的な意味はそこにありません。時と場合によって、意味合いは変わります。

周縁映画運動というのは、基本的にスクリーンを得るための格闘を意味します。というのも、いま挙げた監督たちの作品は、当時、インドネシアの主要な映画館では上映されなかったからです。周縁映画運動に属するのはだいたいが短編であり、実験映画やドキュメンタリーであって、35ミリ・フィルムではないフォーマットで記録されたものでした。メインストリームでは上映も配給もされない作品です。

こういった作品が周縁であるとすれば、同時期にメインストリームだったのは一体どのような映画なのでしょうか。当時のメインストリームの映画館は、チェーンではない映画館でした。つまり、個人が所有して経営する映画館のことです。巨大なグループ産業の映画館ではありません。そこで上映される作品は長編で、まっすぐに進む物語を持っていました。インドネシア映画だけでなく、当時からハリウッド映画もインド映画も中国映画もありましたが、それらはインドネシア映画ほど大きな市場を開拓していたわけではありません。それに、テレビでは放映されませんでした。もちろんテレビにも市場はあったのですが、当時はテレビは高級なものでしたので、多くの人は視聴覚体験を映画から得ていました。

それでは、インドネシア・アニメーションの話をしましょう。インドネシアのアニメーションの歴史をこの時期以前に辿ることは難しいのです。映画館でもやっていない。テレビでもやっていない。アニメの番組はまだありませんでした。インドネシアのアニメーション作家によってアニメーションで場面が作られるということはありましたが、この点についてはのちほどお話ししましょう。

一つ指摘しておきたいことがあります。当時はアニメーションはほとんど存在していなかったかもしれませんが、マンガはかなり大きな影響力を持っていました。70年代、80年代、90年代と、インドネシアのマンガは大きな市場を得ていて、中流階級や労働者階級に広く広まっていました。だれもがインドネシアのマンガを読んでいました。

周縁映画運動の時代に、ゴトットは最初の実験映画作家と見なされていました。彼は他の作家と共同で作品を作ることもありましたが、映画の他の形態に対して敏感な感性を持っていました。つまり、ドキュメンタリーや短編映画だけでなく、自由なオーディオビジュアルの表現という点で実験映画にも関心がありました。アニメーションは実験映画の一部でした。当時のゴトット・プラコサはアニメーションを一つの領域として擁護していたというわけではなく、実験映画の一部としてアニメーションを擁護していたのです。

ゴトットは当時自分のことをアニメーション作家だと思っていませんでした。自分は実験映画作家であり、運動や映像を作るためにすべての手法を試すのだと考えていました。アニメーションが彼の実験の一部であったのは、そういう理由によります。基本的に、ゴトットは手書きで描いたりはしません。特定のスタイルがあるわけではありません。彼はなんにでも挑戦するのです。この時期、彼は実写にも挑戦し、パフォーマンスにも挑戦しています。そのあとに、直接描くということをやるようになります。手書きで直接16ミリのフィルムの上に描いていきます。またストップ・モーションも使っていくようになります。

もう一度、周縁映画の最初期の問題に戻ってみましょう。彼らは自分たちの作品をどうやって見せていたのでしょうか。大きな映画館では扱ってもらえませんが、当時はそれが映画を見せる唯一の方法でした。そこで彼らは自分たちの映画館をつくることにしたのです。いわば、神出鬼没の映画館とでも言いましょうか。教室を上映ホールに変えてしまう。街を旅してまわり、路上やサッカー場にスクリーンを設置し、そこで上映してしまう。この時期でもっとも重要なのは、当時は「対抗上映」というものがあって、それが運動に影響を与えている点です。対抗上映とは何かというと、インドエネシア映画は当時大変貴重なものだったのですが、大きな映画配給業者についていって、その大きな市場を利用したのです。たとえばジャカルタでは、インドネシア映画祭がありました。授賞式の夜に彼らが何をしたかというと、授賞式の会場から数ブロック離れた場所で仮設のスクリーンを設置して自分たちの作品を上映したのです。あるいは、大作をやっている大きな映画館の駐車場を使ってしまう。こういうふうに、対抗上映を行っていました。

1982-90年代 テレビとゴトットの国際的評価

それでは次の時代に移っていきましょう。だいたい82年から90年代までのことです。国営のテレビが登場した時代です。正確にいうと「登場」ではないかもしれませんが、テレビはこの時期に社会に浸透しました。テレビの所有率が上昇し、人々がテレビを見るようになりました。テレビが映画に次ぐ2番目のスクリーンになったのです。

インドネシアのテレビにおけるインドネシア・アニメーションにもっと近づいて話を進めてみましょう。当時放映されていたのは、いわゆるパイロット版です。パイロット版というのは、テレビや国家によるアニメーションのプロジェクトであったという意味です。実際、国家に所有権が帰属するもので、それらはワン・シーズンも放映されないで終わりました。わずか数回のエピソードで終わりになっていました。基本的には、こういったアニメーションは2つありました。最初の作品は「フーマHuma」というタイトルで、これは5回分のエピソードが放映され、それぞれのエピソードは11分ほどでした。大変短いもので、それ以後続けられることはありませんでした。もう一つは、「カンシルKancil」というタイトルの作品で、ウォルター・フォスター社から出ていた教本のパクリと呼べる代物です。政府がアニメーション作家を招いて、彼らにウォルター・フォスター社の教本を渡すわけですが、同じアニメーションの場面をもとに顔だけ取り替えて、インドネシアのアニメーションにしてしまおうというものでした。3回、いやたった2回放送されただけだと思います。

アメリカのカートゥーンではない、インドネシア製のアニメーションがテレビで見られたわけですが、80年代に子供だった私たちの世代がテレビでもっとも見ていたのは、政府主導による公益事業の広告です。テレビ番組ではなく、その間に入れられていたCMです。一つ目は社会を暖め、消費者を賢くさせて広告の商品にお金を使うように導くものでした。二つ目のものは、政府による家族計画の奨励です。

また、この年代はゴトット・プラコサが運動を主導しながら自身の作品を発展させていった時代でもあります。ゴトットの作品を見てみますと、この時期、彼の作品は状況と関係を結ぼうとしていました。単に社会状況と関係を持っていただけではなく、実際に映画館やテレビを通して広められていました。『絶対的な禅Absolute Zen——今日のプログラムで一番初めの作品です——は、消費社会に対する批判です。次の『Non KB』は、「ノー・家族計画」ということです。これは、家族計画を広めようとする政府の広告を読み替えたものと言えます。なぜなら政府の広告は教育を受けていない人にとっては非常に分かりにくいものでしたので、ゴトットは家族計画が何であるかを分かりやすく解説してみせました。

プログラムで最後に上映されたゴトットの作品は、『ブガワン・チプトニンBagawan Chiptonin』です。大変興味深い作品です。このような高速の作品はいま見ると低俗に見えるかもしれません。いかにも実験的だからです。しかし、当時は意味がありました。実際の動き、伝統的なインドネシアの舞踏の動きとは異なるからです。この種のパフォーマンスでは役者の動きはとても緩慢としています。たとえば、頭を左に動かそうとすると、5秒から10秒もかかります。こういった演技のなかには一種の固定性があります。ゴトットはこのような固定性を相手にしたわけです。アニメーションで固定したフレームを動かそうとするように、です。これはまたテレビに対する返答でもありました。テレビは、舞踏のようなインドネシアの伝統文化を記録しようとしていましたが、テレビだと切り詰められてしまうからです。しかも、大事なところがカットされてしまったりする。テレビで見せるために、そのような処置が行われてしまいます。

彼はこの時期すでに、アニメーション用のセルとオクスベリーというアニメーション用のカメラを使っています。アニメーション制作に欠かせないものを揃えていたわけです。この時期に、彼は評価されていきます。

一番重要な出来事は、彼がオーバーハウゼン映画祭に招待されたことでした。アニメーション専門の映画祭ではなく、実験映画に特化した映画祭ですが、彼はそこで自分のアニメーション作品を上映しました。特別な上映でした。というのも、若きヴィム・ヴェンダースに個人的に招待されていたのです。評価されるようになって、彼はとうとうメインストリームに入っていきます。映画館のオーナーの支援を得るようになります。映画館という正しいブラック・ボックスのなかで作品を見せる機会が訪れました。しかしちゃんとした映画館や上映ホールで作品を見せずにずっとやってきたので、彼は空間の物質性に敏感になっていました。正規の映画館ではないような場所に慣れていましたから、彼は自分の作品を空間に関連づけて発展させていこうとします。彼は拡張映画(エクスパンデット・シネマ)に対する感性も持ち合わせていたのです。

2000年代 デジタル時代

時代をもっと先に進めて、次の年代に移りたいのですが、それは90年代ではなく、2001年です。新世紀の幕開けであり、新しい世代のアニメーション作家が登場してきた時代です。興味深いのは、彼らは基本的に映画から出てきた作家ではなく、ヴィジュアル・アート出身の作家である点です。彼らの作品を見ることができるのは映画館ではなく、ギャラリーなのです。ビデオを用いる芸術作品はビデオ・アートとされるわけですが、彼らの作品はビデオ・アートとも違う新しいものでした。もうひとつ注釈を加えたいのですが、こうした作品は基本的にテレビや映画といったメイン・メディアからは距離を置いたものです。もともとの製作状況からして、そう言えます。というのも、大半の作品はスタンダードな産業構造のなかで製作されてはいないからです。たとえば、いまの時点から見ると、作品の画質があまり良くないように見えるのですが、これはHDで作られてはいないからです。

それでは、デジタル時代のインドネシア・アニメーションについて概観していきましょう。インドネシアのテレビでアニメーションというと、放映されているのはいまだに外国のものばかりです。もっともポピュラーなのは、もちろん日本のアニメです。また、アメリカのニコロデオン発のアニメーションも人気があります。

21世紀になっても、インドネシアのアニメーションはそれほど多くなく、外国のアニメーションを放映することを市場としても好んでいる状況です。しかしアニメーション作家たちは、テレビを避けようと努力しました。自分たち独自のチャンネルを設置しました。つまり、映画祭です。最初はアニメーションの映画祭だったのですが、次第に変わってきて、コスプレやゲーム、おもちゃにも焦点を合わせるようになっていきます。いまや、映画祭の関心はアニメーションに限られているわけではありません。映画館やテレビといったメインの上映ではないのですが、映画祭のような自分たち独自の表現方法が見出されたわけです。私はインドネシア・アニメーションをテレビという形態のなかに探し求めているのですが、それは、映画祭といっても、展示ブースがあってそこで作品を見るときに、スクリーンに上映されるというより、テレビのモニターに繋がれているからです。映画祭は、若手にとって、テレビに参入するための登竜門になっています。

このようにアンダーグラウンドで戦っていたミレニアム・キッズと呼びうるアニメーション作家たちがどうやって登場したかというと、大まかに2つの要因が挙げられます。参照すべきリファレンスの存在と、テクノロジーの問題です。リファレンスというのは、この時期、日本のアニメやハリウッドのアニメーションだけではなく、ほかのものも見ることができるようになったということです。たとえばチェコのヤン・シュヴァンクマイエルです。彼の作品は90年代からインドネシアでは人気がありました。もう一つのテクノロジーに関していうと、2000年代のはじめのインドネシアでは、高価なソフトウェアを手に入れることができました。海賊版が出回っていたのです。たとえばAdobePremiereも、100円以下で入手できました。とても安いですよね。インドネシアでは、インターネット経由でこうしたソフトウェアや珍しい映画作品にアクセスできたわけではありません。当時の接続状況は遅すぎました。それらは市場(いちば)、つまり路上で売られていて、私たちは海賊版を買っていました。おそらくインドネシアはあまり発達している国ではないかもしれませんが、大国と同じリファレンスを参照でき、同じソフトウェアを使うことができました。

いまデジタル時代について見てきましたので、80年代とデジタル時代のあいだにある90年代がまだ抜けたままですね。90年代には何が起こったのかを見ていくことにしましょう。

1990年代 テレビの時代

私は90年代全体を同じフレームの中で捉えてみようと思います。というのは、この時代はすべてがテレビに支配されていた時代だからです。ゴトットも、この時期はテレビの支配から逃れていません。国家運営によるテレビだけではなく、非合法的に開局されたチャンネルが5局ありました。インドネシア映画の退潮とも軌を一にしています。以前に比べて製作本数も減りました。ハリウッドに浸食された時期でもあります。映画も独裁されてしまった時代です。以前は多くの経営者が映画館を運営していたのですが、90年代には大企業一社がすべてを運営するようになりました。インドネシア・アニメーションにとっては希望のない時代でした。90年代にあったのは、長尺で夢想的な海賊版アニメだけです。夢想的という言い方をするのは、部分的に3Dのアニメーションで、5回分も放映されなかったからです。この時期はまた、日本のアニメや『スクーピー・ドゥー』や『トムとジェリー』がインドネシアに進出してきた時代でもあります。安く買える番組だったのです。

ゴトットがこのような流れの中で演じた役割を見ておきましょう。ゴトットは作品が評価され、確固たる地位を築きました。彼は90年代にジャカルタ芸術大学の先生になります。また、国際アニメーションフィルム協会(ASIFA)のインドネシア支部の会長に就任します。さらに加えて重要なのは、彼の著作『周縁映画Film Pinggiran/Marginalized Film』が出版されたことです。単なる用語であり運動でしかなかったものが、アカデミックな領域でも認められるようになりました。ゴトットはテレビ用にアニメーションを作っていたわけではないのに、私は彼が産業の中で演じた役割について話すのには理由があります。ゴトットは芸術大学で働いていたのですが、そこには多くの学生がいて、ゴトットからアニメーションやモーション・グラフィックを学んだ学生が卒業後にテレビで働くことになるのです。ゴトットは、90年代にインドネシアの主要なメディアを形作る世代そのものを作ったことになります。

この点に関して重要なことがあります。「失われた宝」と言うんでしょうか、卒業制作として作られた実験アニメーション作品です。ジャカルタ芸術大学で学び、卒業後にテレビで働くことになった人々は、卒業制作で実験的なアニメーションを作っていましたが、そうした作品は失われてしまいました。たしかに完成度は高くないかもしれませんが、私たちは彼らの作品を最も重要な映画作品のひとつだと考えています。インドネシアには実験アニメーション作品があまりたくさんあるわけではないにもかかわらず、学生たちが多くの実験的な作品を作っていたからです。今後も失われた宝と見なされつづけていくでしょうが、いつか発見できることを期待しています。

2010年代以降

それでは、デジタル時代の最新の段階に移りましょう。ここ5年くらいの話です。ここではインドネシア・アニメーションに絞って、話をすることにします。今日のインドネシア・アニメーションとは何なのか。現在では、アニメーションはニッチなチャンネルでありながら、巨大でみなに共有されています。アンダーグラウンドではなくなっています。誰もがアクセスできるものになっています。メインストリームでもテレビでも、インドネシア・アニメーションの最新の合い言葉は、「すべてをみんなとシェア」といったところです。いまはアニメーションが1年か2年くらいテレビで放映されます。私は、未来ではどのようになっていくだろうかと考えながら見ています。テレビで放送されているアニメーションは、インドネシアの人々の日々の暮らしを描いたホームドラマで、アメリカの「シットコム」のようなものです。ただし、それがアニメーションで行われているわけです。

このようなタイプのアニメーションは、もともとはマレーシアから始まり、いまではインドネシアでも人気になりました。それで、村の子供たちをめぐる番組だったのが、インドネシアのテレビで自分たち用にアレンジをして、小さな町の家族を中心にしたような物語になりました。日々の暮らしが描かれるだけで、スーパーヒーローはいません。言葉を操る面白おかしい動物たちもいません。風変わりなものは出てきません。ただ日常が描かれるだけです。このようなアニメーションが安定した成果を上げるようになると、製作を担うのがアニメーション・スタジオでなくなりました。テレビ局が自前で製作するようになり、アニメーション・スタジオから買う必要がなくなりました。ただそのかわり、若いアニメーション作家をテレビ局に雇って、そこで作品を作ってもらう。したがって、アニメーション作家は作品をテレビに売ることができなくなってしまいました。テレビの内部で働くことができなければ、もうチャンスはありません。スタジオで働いていたり、インディペンデントで作品を作っていたりするアニメーション作家は、テレビが作品を買ってくれませんので、もっと巨大なビジネスに参入しようと考えます。これがインドネシアのアニメーション作家が狙っていることで、彼らはハリウッドで働いています。もっと大きなマーケットに入ろうとしています。実際、『ミニオンズ』のアニメーターはインドネシア人です。『タンタンの冒険』もそうなのです。

それでは、コンテンポラリーというか実験的というか、別の方向を示すインドネシア・アニメーションはどうでしょうか。こうしたアニメーションは、以前の運動をそのまま引き継いでいると言えます。以前のようにテレビとは距離を置き、映画とも距離を置いています。この時代のアニメーションは、美学的手法を延長させたものと言えるでしょう。今日ご覧いただいたアリエール・ビクターAriel Victorはイラストレーターで、アニメーションを作っているわけではありません。ナスターシャ・アビゲイルNatasha Abigailは、パフォーマンス・アーティストで、ミュージシャンです。彼女は自分でアニメーションを描くことはありません。描いているのは、クラウドソーシングで進められるプロジェクトに参加したいと思った彼女のファンなのです。彼女はそれをまとめるために、監督をしているようなものです。ウーラン・スーヌーWulang Sunuは、パペット・アーティストです。彼は人形劇の劇場で働いていますが、今回上映した作品を作る際は、自分の人形を使い、ストップ・モーションで作品を作りました。一度行ったきりで、ほかの作品は作っていません。彼が言うには、アニメーションを作るのは大変な労力だとのことで、伝統的な人形劇を好んでいます。

次にトロマラマToramaramaですが、一番変わっているように見えるかもしれません。彼らはメディア・アーティストのグループです。メンバーは全員、グラフィックアートやメディア・アートの作品を作っています。今回上映した作品は特別で、刺繍でできています。つまり1コマ1コマが刺繍を縫って作られています。彼らもさきほど挙げたアーティストたちと同じく、アニメーション作家ではなく、作品を映画館で上映するのではなく、音楽のパフォーマンスと一緒に舞台上で上映します。場所はギャラリーであったり、インターネット上であったりしますが、映画館ではない場所です。アニメーション作品を多く作っているというわけではなくても、彼らの存在はインドネシア・アニメーションにとって重要でありつづけています。なぜならアーティストたちは、なによりアーティストとして、批評的および商業的に評価を得られるようにがんばっているからです。彼らにはちゃんとした素地があり、それがアニメーション作品へと延長していくわけです。彼らの作品は高い評価を受け、アート・マーケットでは高額で売れるのです。

またこのような流れに関連してお話するならば、インドネシアではビデオ・アートはメディア・アートの一部と見なされています。以前は、コンテンポラリー・アートといえばビデオ・アートでしたが、いまはビデオ・アートはメディア・アートになっています。メディアの拡張という観点から、そう捉えられています。

もしかすると、開拓者たるゴトット・プラコサはこの時期にどう位置付けられていたのかと、疑問を抱いた方がいるかもしれません。実は、彼はほとんど忘れられていました。この世代はゴトット・プラコサを誰も覚えておらず、この新しい運動の中には位置付けられていません。悲しい報せが届いたのは、去年のことです。ゴトットは亡くなりました。そして、彼の作品は映画祭や図書館に散逸し、ばらばらになっています。彼は90年代に運動からは遠く離れ、講師として身を固めました。作品も作らなくなっていました。それで、私たちは彼の作品を集める必要を感じていませんでした。彼の作品をすべて集めなければならないことに、いまになって気づきました。

インドネシアの実験アニメーションを要約すると、だいたい以上のような内容になります。今日は、インドネシアにおける実験映画運動に関連させた、インドネシア・アニメーション全般についてお話させていただきました。

質問1

ゴトット・プラコサの作品をいくつか見て、ドイツの絶対映画の影響が感じられました。インドネシアで、こういった作品を見る機会はあったのでしょうか。

リスキー・ラズアルディ

はい、ありました。それと関連して、ゴトットがなぜオーバーハウゼン映画祭に招かれたかという話をすると、ヴィム・ヴェンダースが70年代後半にインドネシアに来て、ゴトットを招待することになりました。ヴェンダースは当時はスーパースターではなく、インディペンデントの映画作家でした。ドイツ文化センターによってインドネシアに派遣されてきました。そして、ゴトット・プラコサとヴィム・ヴェンダースは互いに影響を与え合ったわけです。ヴェンダースはゴトットからインスパイアを得たし、ゴトットはドイツの実験映画に接することになります。2人は連絡を続け、その結果、ゴトットがオーバーハウゼンに招かれるにいたりました。

質問2

最初の75年から82年の時代のお話でドキュメンタリー映画にも言及されていましたが、この時代にドキュメンタリーはどのような主題を扱っていたのでしょうか。

リスキー・ラズアルディ

映画館は観客が好む劇映画ばかりを上映するので、ドキュメンタリー映画の市場はそこにはありませんでした。またドキュメンタリーには、当時のテレビで放送するチャンスもありませんでした。というのも、テレビを運営していのは政府で、富裕層しか相手にしていませんでした。もちろんテレビにもドキュメンタリーの番組はありましたが、ドキュメンタリーというより、ニュースや討論番組でしたね。いずれにせよ、若い映画作家とは関わりがありませんでした。若い映画作家には、テレビで放送するチャンスはなく、映画しかなかったわけです。こういった若い監督によるドキュメンタリーは、政府による番組と比べると、はるかに批判的視点を持っているものでした。映画館も自分たちのビジネスを邪魔するような作品を見せようはしませんでした。